2012年2月12日日曜日

病気なら仕方がないが・・・

愛知県の私立高校の入学試験が終わった。用事があってある私立高校に出かけた。そこで見たものは,驚きだった。学校につながる道は大渋滞。学校に着くことが難しい。片側一車線の片側がびっしり駐車した車だ。自分の子どものことしか考えていない親の行動。甘すぎないだろうか。

 私は何とか学校に着くものの,着くまでの間,対向車を避けるためにバックを何度もせざるを得なかった。確かに,季節柄風邪の症状でも頑張った子もいる。でも,帰りに見た状況では全く違う。高校に入学しようとしている子どもである。一人でできる子どもである。考えないと・・・。

 少し前の親なら,「自分で行きなさい」と言う方が多かった。子離れできない親のため,子どももいつまでも親離れできない。大学入試でも試験中,子どもが病気でもないのに1日中控え室で見守っている親が増えた。控え室を増やさなくてはいけないそうだ。

 東大で安藤 忠雄氏(建築家)が苦言を呈して事があった。氏はこう言ったという。<自己を確立しない限り独創心は生まれない」「自立した個人をつくるため親は子どもを切り、子は親から離れてほしい」>と。もっともだと思っている。

生活保護を考えて!

昨日「生活保護」を受けられず,餓死した姉妹の話をテレビで見た。こんな事が現実に起きている悲しい日本だ。学校に勤めていて,数回,この生活保護に疑問を持ったことがある。それは,だいぶ前の話だが,子どもが携帯電話を持っているので聞くと,月に数万円の使用料を払っているという。まだまだ携帯電話も普及していないときである。
 何も携帯電話を持っていけないとは言わないが,1万円でも苦しんでいる人が生活保護を受給していないことを考えると,矛盾を感じた。正直に頑張っている人が苦しんでいる社会であるなら,何とか変えられないだろうか。
 たぶん,餓死してしまった人が住んでいた自治体も,勝手に思うことだが,「一部の人の常識外れ」の申請に苦慮していたのかも知れない。

 日本は,年々正直者が馬鹿を見る世の中になってきている。正直に真面目に努力するのが当たり前だった昭和前半はどうなったんだろう。当然のように子どもたちは,権利のみを主張し,義務を果たさない子が増えた。これは,親を見ればわかる。

 さて,平和が続いたせいか,組織も活気を失ってきている。改革という言葉があちこちで聞こえてくる。しかし,組織が安定しているということは,改革の必要性を感じない組織になっているということで,改革をするには,組織外からの人で行わざるを得ないのだと思う。今,大阪では橋下さんが何やら頑張っている。当然,組織外の人である。
 今,日本はそういう改革をしないとやっていけなくなるかも知れない。私も教師という組織の中だが,そう感じることが多い。そうでもしないと,若い教師が育ってこないのではないだろうか。

2012年2月7日火曜日

これが「時代?」

受験シーズンである。願書を生徒に書かせていて驚くことが多い。
まず,
 ①保護者の名前を漢字で書けない。
 ②住所がかけない。
 ③電話番号を覚えていない。
など。

 ちょっと前にはあり得なかったか少なかったことが,今やその数が激増している。これは何を意味しているのか。知らなくても生活できる環境になったと言うことだろう。でも,それっておかしくないだろうか。親は,子どもに,これくらいは書けて言えるようにしておくべきだろう。違いますか?

保護者?

卒業式が近づいてきた。毎年,特攻服なるものを着る生徒がいる。しかし,この特攻服を親と一緒に買いに行ったり,また,持ち物を調べられるといけないと親が持ってきてきさせるという事態もある。

 保護者ってなんでしょう。子どもの言うことを間違っていても聞くのがいいのでしょうか。自分が「着られなかったから自分の子どもには着せたい」という保護者の考えはおかしくないですか。でも,これが現実なんです。よく,「先生は甘い。何をやっているんだ」と叱られることがある。その時も,その指導の内容を言うことができないのが辛いところです。決して甘くないんです。そう見えてしまうのは事実かも知れませんが,保護者の対応,考えているよりも大変と言うことです。

「戦う」自分に戻る?

「老いては子に従え」ということわざ通り,ここ数年は,自分から積極的に物事を進めるのではなく,若い世代に合わせて物事を進めてきている。体力的にも無理が利かなくなっていることもある。
 しかし,傍観しているわけにはいかない思うことが増えてきている。もし,自分が昔のように行動をするならば,物事をひっくり返すようなパワーで行動するだろう。それは,賛否両論ある状態になることは間違いない。前から,一人でも行動していく事は何ら苦にならないので,今までも何度も多くの人たちと一戦を交えた。これが良いかどうかはわからないが,少なくとも生徒・保護者の多くから支持をしてもらったことが多い。

 迷いとしては,残り年数が少ない自分が行動することで,その流れを継承できる人がいるかどうかという点で,結局,元に戻ると言うことなら,意味があるのかどうかが疑問となる。まあ,もう少し,考えてからでも良いか。

あれっ?②

私たちの年代が教師になった頃は,「荒れる学校」と言われた時期である。ガラスが割られ,校内にバイクや車が進入し,平気でシンナーを吸って登校。対教師暴力も日常茶飯事だった。その「修羅場?」を超えてきた私たちが,自ら体得したものは多い。

 しかし,今,学校は,生徒を管理をすることで「学校を落ち着かせよう」としている。まさに,30年前に戻ろうとしている。生徒とどう人間関係を築き,どう指導をしていけば良いかをせっかく身につけたのに,それが伝承されず,「古い」「甘い」指導ということで理解されずに,見た目を優先し,生徒の心に入っていく指導が二の次になってきているような気がする。いわゆる「排除の論理」である。うがった考えで言えば,こんな楽なことはない。だって,問題を起こす子や起こした子を来させなければ良いんだから・・・。
 それをしないような「技」を身につけた教師が減ってきた。また,そういう先生が,学校でないがしろにされていく現実がある。

 私から見れば,歴史は繰り返すんだなと言うこと。ただ,その間の生徒たちはどうなるんだ。物ではなく,人なんだと言うことを考えていない気がする。でも,いつになったら,こういう事を考えなくても良い学校で働けるんだろう。もう少ししかないのに・・・。

あれっ?

今日から「私立高校の一般入試」が始まった。緊急の対応がある可能性から,私たちは7時くらいから対応のため,学校に向かう。当然,勤務時間ではないが,当然のように毎年行く。

 しかし,今日気づくと,笑い話にはなったが,学校に到着順は,何と年齢の高い順だった。若い先生は,生徒に伝えてある時間を超えての到着。「あれっ」と思う。でも,勤務時間ではないので強制はできない。私たちの若い頃は,勤務時間なんて関係なく若い教師が常に早かった。

 こんな事があって,いろいろ思い出すと,ドアで鉢合わせになったとき,私たちの常識では年長者に譲るが,若い人の多くは,譲られた何の言葉もなく通り過ぎていく。確かに,勉強は頑張ってきたんだろう。でも,私たちの仕事は,勉強も教えるが,「人として」と言うことも教えていくんだという自覚に欠けているかも知れない。
 私はかねてから思うことに,あまりに若い先生に「教科研究」をやらせすぎて,生徒との触れあいすらできない教師を増やしているんじゃないかということ。文章を書いたり,文章を読んで行動はできるが,「人として」の部分が欠落していく。寂しい限りだ。

 また,ベテランの先生の指導に失礼な物言いをする若い教師もいる。明らかに生徒との信頼関係を築き,リーダー的な先生に対しても上から物を言う。これは,間違っていると思う。私たちの若い頃は,ベテランの先生から「技」を盗むことを考えた。でも,今は,若くても一人前だという意識が強い。

 まあ,こんな事を思うと言うことは,自分が歳をとったと言うことかな。